中国文学基礎

中国文学基礎(Introduction to Chinese Literature)ガイダンス10.4

1授業概要
 東アジア文明圏の文化的通貨ともいえる漢字。香港でもシンガポールでも、すでに英語が確たる共通言語になっている。けれど、漢字の看板や広告の氾濫を目にして、誰しも、そこが紛れもなくアジアの街角であり、ふるさととはいわないまでも、まるで隣町にいるような懐かしさを覚えるはずだ。
 漢字を欠いた生活は、当面考えにくい。カタカナの氾濫する現代に、漢字文化の水脈をあえてたどりたい。アジアの巷を横に漫遊するのは楽しいが、縦に歴史ツアーをこころみるのも悪くない。
 科目名は文学云々となっているけれども、漢文の歴史・言語・文学・思想のアウトラインをつかむ。漢文の文章は、ジャンルを越えて、魅力的な文彩(ことばのあやもよう)をいろいろと施されているものだ。中国は文学の観念がやや広いことを、特質としうる。
 好き嫌いを別にして、漢文の片言隻句が心に染みついている人は多い。むしろ古典漢文は、日本人の精神の骨格を形成しているとさえ言える。西洋の古典語がそうであるように、人間をつくるうえで枢要な、教養のコアの部分に古典漢文は位置するはずだ。
 ここでは「文学とは何ぞや」式の空論は避けて、一歩一歩、ゆるゆると漢文の基本を学んでいきたい。

2対象
 中国文学・語学コース希望者は、そのガイダンスとして、教職志望者は、そのためのお勉強として、「漢文の基礎知識」講座として、または各自の関心に応じて。

3授業計画
1文字と語彙 2文法 3韻文と韻律 4散文と修辞 5古代文化の基礎知識
その他毎時間、漢文訓読の基礎を少々。

4テキスト
森野繁夫『漢文ーまとめと要点』白帝社 (1500円+税)

参考書
随時指示します。

その他
・履修にあたっての留意点
授業終了前最低10分間ぐらいは、質問・感想・意見発表を受け付ける時間とします。

担当教官の専門分野
中国文学(後漢〜魏晋時代の文学形成)

第2回10.11
A:中国文学ヴァーチャル旅行(スライドショー)
B:講義
C:主要漢字の訓読練習

 講義(テキスト154p以下参照)
§1文字と語彙10.11
0 中国文学の研究スタンス
 現在の中国文学は、中国に関する一種の総合研究の一環として位置づけられる。その基礎となる、支那学=Sinology(明治末期以来)の伝統は、前代の漢学・漢文学を批判的に継承したものである。
 授業は、中国の文・史・哲各分野にまたがる基礎修練ともいえる。 

1古今の語義の異同
1.1言葉は発展する。言語の学習には、それが歴史的に発展・変化するものだという観点が欠かせない。と同時に継承性もある。
発展と継承のリンク
現 代 〜近 代〜 中 古〜 上 古
* 漢語史の時代区分上古(3世紀以前・五胡十六国の乱以前)中古(4世紀〜11世紀・南宋前半)近代(13世紀〜19世紀・アヘン戦争)現代(20世紀)※王力『漢語史稿』による。
 以上縦の変化。一方、横の変化には、方言や、他国における漢字文化の受容(広東語などの語彙や、方言による音の違い、漢字文化の日本への同化等)がある。現代漢語は、古代漢語を継承しつつ縦横に発展してきたのである。
 たとえば「鶏・牛・大・小・哭・笑」は数千年前と意味が変わらない。しかし、このような例は、少数で、語義が歴史的に変化して行くことの方がふつうである。
 ただ、変わる場合でも、音を同じくする他の意味に転用される(テキスト155p参照)ように、全く意味が変わる場合と、形声字や、あるいは、本義があって引伸義が派生する(転注)といったぐあいに、微妙に異なっていく場合がある。
 言語が持っている継承性・安定性は、文化の歴史的アイデンティティー形成に大きく与っている。中国では、古典を重視する態度を含めて、それが強固であったと言える。それと同時に、漢字の字義が、派生し、変わっていく、その言語発展のあとから、文化の豊かな意味産出力をうかがうこともできよう。生きていく以上より良き生を、人は求める。その過程で、紆余曲折はあるにせよ、新たな文化がもたらされてきた。そして、新たな文化には、それを表現する新しい言葉の創造が必要なのである。
 
1.2 以上からも予想されるように、古典の文章や作品を読もうとするとき、ただ漢和辞典を調べるだけでは、正しい読解ができない。辞書は不完全であり、語義の時代による区別がなされていないからだ。字典・辞書等の専門書を活用することは大事だが、自ら科学的な方法で、比較や帰納を行い、古書の中で行き当たった語義の問題を解決すべきである。
 
 「再」を例に挙げれば、上古においては、ただ「二度」の意味をもつ用例しかなかい。
『春秋左氏伝』(11p/34p参照)荘公10年に「一たび鼓して気を作(な)し、再びして衰え、三度して竭(つ)く」とある。この「再」には、<また>の意味はなく、<二度目>を表しているのである。

第3回10.18
A 講義
B 訓読練習
C 古典詩への招待(映像)

§2 漢字の構造
1.1 漢字の三要素
 文字が創造されるおおもとは、物の形を象る方法、つまり象形が基本であった。
したがって、象形文字は絵画を基礎とする。しかし、絵画と文字とはちがう。
 現代に引き寄せて考えてみよう。パソコンを操作する際、必ずアイコンという一種の絵文字の助けを借りることになる。“ハサミ”のアイコンであれば「切り取る」、“のり”なら「貼り付ける」等々、普段から活用している。
 だからといって、アイコンを文字とみることはできない。アイコンは、原始社会の絵画と似ているともいえる。というのは、原始社会の絵画の一面は、ある事物や概念を描いて人に伝え、自分で記憶する際の助けとしたもの(もちろん純粋な「芸術的動機」も存在した)であって、その点では、アイコンと同じなのである。PCのディスプレイ上では、数多くのアイコンが並んでいるが、その下にはアイコンの種類が文字表記されているか、またはアイコンをマウスで指すと、そこに文字説明が現れるという場合がある。
 このことは、アイコンが、あくまでも、文字に対する補助的な記号にすぎないことを意味する。
 文字と絵画の違いは、先に文字の定義をみることから、とらえてみたい。漢字の象形文字は絵画に近いが、現在、最古の文字とされる甲骨文字には、たとえば「魚」という字がある(155p参照)。これが絵画ではないのは、次の三点の要素を兼有していることによる。
(a)固定した形をもつ。(b)固定した読音をもつ。(c)ある一つの概念を表す。絵画はこの定義を満たさない点で、文字と大いに異なる。
 ただし、上の定義は、漢字にかんしていえるものである。簡略化していえば、漢字には(a)形 (b)音 (c)義 の以上三要素が含まれているのである。アルファベット等とは、特に(c)において異なっている。また、漢字は一字一音節一義を特質とし、これはアルファベットにはないものだ。

2.2 漢字の六書
 後漢の許慎(58?〜147?)著『説文解字』は、漢字の形・音・義についての根本的、体系的研究書である。当時の「小学」(=文字言語に関する学問)の最高水準を示し、部首による分類、六書による構造解明、原義を明らかにし、現代にいたるまで恩恵を与えている。
 許慎は『説文解字』叙の中で「六書」により、漢字の成り立ちを説明した。(1)象形:日・月 (2)指事:上・下 (3)会意:武・信 (4)形声:江・河 
(5)転注(6)仮借については、音や意味の類推からの派生義と考えられ、両者の区別が付きにくい場合がある。たとえば、令(命令の令→県令の令)、長(長久の長→県長の長)を仮借とみる(許慎)か、転注とみるか説(後の注釈家)が分かれる。
 以上を要するに、次のような区分が理解できればよい。
 説文解字=説文+解字  
       説文(文=かたち、を説く)……象形・指事・会意・形声
       解字(字=生まれ増えたもの、を解く)……転注・仮借 *字の原義は、子を養い育てる。 
 *象形文字と六書の象形とのちがいに注意。 きょうび、はやりの「トンパ文字」は象形文字です!

第4回 10.25
A 講義
B 訓読練習
C 詩の風景

§3 文法
0. 先週は、漢字の三要素「形音義」にふれた。今ちょうど、学部内で書道(授業であろう)展示会が行われている。“空”という書があった。この字の部首は、あなかんむりで、これが意符。声符は工。字体は、かんむり部分を“穴”のように書くのが本字(旧字)体である。そのような字体の違いの他に、さまざまな書道(中国では書法)の字体が、目を遊ばせてくれる。さらに、観る者は“空”という書を前にして、いろいろな意味を読みとるだろう。おおぞら、からっぽ、ひま、むなしい、ひろい、あな……。あるいは仏教の「空」。また、“空”は、呉音では「ク」、漢音では「コウ」、慣用音(およそ、もとの中国音の誤読から生じた日本式漢字音)は「コウ」と読む。「ソラ」と読むのは、いうまでもなく和訓である。“空”という字を、例にとってみても、漢字の「形音義」が、無機質な記号ではなく、いかに、ゆたかなすがたや、ひびき、そして、こころをもっていることか。漢字そのものが、ある意味で文学性に富んだ文字であるということができよう。
 では、このような漢字の連なりがフレーズや文となったとき、そこにはどのようなメカニズムが働くのだろうか。具体的にまた折々にテキストを照らし合わせながら、話を進めていきたい。
 *日本漢字音のうち、呉音は中国揚子江(ようすこう)沿岸地方の音で、たぶん朝鮮を経由して伝来したもの、漢音は中国北方の長安(いまの西安)地方の音で、呉音に次いで伝来したもの、唐音は10世紀以降に伝来したものといわれる。「行」について、呉音はギョウ、漢音はコウ、唐音はアンである。
 
3.1 「也」について(テキストは以下94pから適宜参照せよ。)
 「夫戦、勇気也。」:「夫(そ)れ戦いは勇気なり。」(『春秋左氏伝』荘公10年)の「也」は、書き下し文では、ひらがなで書くきまりである。(テキスト99,100p参照)この用例は、「戦いを行うには勇気が必要だ。」といった意味であり、決して「戦いは勇気に等しい。」と言っているのではない。漢文には、内容の圧縮された表現(簡略化表現)が多く、これに慣れる必要があろう。とはいうものの、日本人は論理的な表現よりも、むしろ簡略な言い回しを好むように思われる。古来、漢文のこのような圧縮表現になじんでいたからかも知れない。 いずれにせよ、漢文には、ことばを削って含意をもたせるという特徴が指摘できる。詩的表現が豊かなのである。
 ここに挙げた「也」も、圧縮されたことばの末尾において、判断や論断、断定を表している。
3.1.1 文末の「也」
○「媼之送燕后也、持其踵為之泣、念悲其遠也。」:「媼の燕后を送るや、其の踵を持ちて之が為に泣く、其遠きを念い悲しめばなり。」(『戦国策』趙策)
○「古之人与民偕楽、故能楽也。」:「古の人は民と偕(とも)に楽しむ。故に能く楽しむなり。」(『孟子』梁恵王篇)
 以上の例のように、「也」は因果文の文末に用いられ、結果から原因へ遡って真相を説明したり、原因から結果に及んで論断する。因果関係の説明も、論断を示す「也」の特徴的用法である。
○「不及黄泉、無相見也。」:「黄泉に及ばずんば、相見ること無かれ。」(『春秋左氏伝』隠公元年)
 古典漢文では、「也」によって命令文をしめくくることも多い。
○「豈若匹夫匹婦之為諒也。」:「豈に匹夫匹婦の諒を為すが若(ごと)くならんや。」(『論語』憲問篇)
 疑問詞(ここでは「豈に」)とともに用いられて、疑問の語気を表すこともある。

3.1.2 文中の「也」     
○「媼之送燕后也、持其踵為之泣、念悲其遠也。」:「媼の燕后を送るや、其の踵を持ちて之が為に泣く、其遠きを念い悲しめばなり。」(『戦国策』趙策)
○「鳥之将死、其鳴也哀。」:「鳥の将に死せんとする、其の鳴くや哀し。」(『論語』泰伯篇)
 以上の2例は、「也」が文中に用いられて、「や」と訓じ、停頓を表す。



第5回 11.1
A 詩の風景
B 講義
C 訓読練習

§3文法のつづき

0 漢文(古代漢語)における叙述文の構造の基本は、テキスト94pにあるとおりで、目的語が動詞の後にくるのがふつうだが、強調するために目的語を前にもってくることもある。
○「惟徳是依。」:「惟だ徳に是れ依る。」(『左伝』僖公五年) *『春秋左氏伝』の略称。
○「姜氏何厭之有。」:「姜氏は何の厭くことか之れ有らん。」(『左伝』隠公元年)
 この例のように、目的語に「之」や「是」を続けて、動詞の前に置くことがある。
 一般に、日本語と同様に、動詞を修飾する副詞(句)は、動詞の前に置かれる。
○「禹八年於外、三過其門而不入。」:「禹、外に八年、三たび其門を過ぐれども入らず。」
(『孟子』滕文公篇上)
 「三たび」は、「過ぎる」の前に置かれているが、次のような例では、どうか。
○「范増数目項王、挙所佩玉ケツ(王+夬)以示之者三。」:「范増数(しば)しば項王に目し、挙佩(お)ぶる所の玉ケツ(王+夬)を挙げて以て之に示す者(こと)三たびす。」(『史記』項羽本紀)
 ここでは、「者」の前が文全体の主語であり、「三」は述語であって、副詞句ではないから、文末に置かれるのである。
 以上、叙述文の形式の一端をとらえてみたが、もう少し、漢文のキーワードを、個別に
ながめてみたい。
 ここまで学習してきて、既に飽いてしまった方は、一つ一つ暗記しようなどとは考えないこと。漢文という言葉のしくみが少しでもわかればよい。また、実際に、まとまった漢文の文章を、二年生以上になって読む場合でも、先述したように、漢文は圧縮された文学的言語であるから、文脈をよく把握し、意味のロジックに沿っていけば、解釈、訓読できるはずである。
音読(漢文素読)学習法も、もちろん効果的だろう。
 
3.2 「矣」について
 漢文は、いわば外国語である。外国語を翻訳する最大の難点は、特有のニュアンスをどう理解するかである。翻訳とは、一義的に相手が基準であって、自国に都合のよい解釈は、悪くすると歪曲すらもたらすものだ。かつて、田中総理(真紀子の父)が日中国交回復の調印式のため訪中した。席上、日中戦争時の罪過を反省するコメントが発せられたが、日本側の通訳は、「中国に対し多大のご迷惑をおかけした」というところを、中国語の「麻煩」という単語を用いて中国側に訳し伝えたのだ。「麻煩」とは、コップの水をこぼして女性の服を濡らしてしまった時に使うような、きわめて軽い日常の言葉である。反省とはほど遠い軽薄な言葉だと、時の周恩来が激怒したのは、有名な史実である。ことほどさように、正しい翻訳は難しい。そのことを十分に覚悟しつつ、頻用語のニュアンスについてながめてみたい。
 まず「矣」についてみてみよう。
 「矣」は、事物の変化や発展を意味する。
○「我知所過矣。」:「我れ過つ所を知る。」(『左伝』宣公二年)*「矣」は、訓読では読まれない置き字。
 これは、はじめは知らなくて、今わかった、の意。
○「朝聞道、夕死可矣。」:「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり。」(『論語』里仁篇)
 以前はよくなっかたが、今はよい、とうのが「可矣」。これが「可也」であると、単なる客観的判断である。違いに注意。

3.3 「焉」について
 「焉」は、指示代名詞であり、疑問代名詞である。まずここでは、肯定文での用法をみてみたい。
○「余収爾骨焉。」:「余、爾(なんじ)の骨を収めん。」(『左伝』僖公三十二年)
 私は、そこでおまえの骨を拾ってやろう。
○「非曰能之、願学焉。」:「之を能くすと曰ふには非ず。願わくは学ばん。」(『論語』先進篇)
 この方面を学びたいのだ。以上二例に示されるように、「焉」は、つねに、場所や人物に関連して指示しているのである。ここでは「焉」は、訓読に表れない置き字であるが、「焉」を、そのまま「これ」のように読む場合も、したがって、あるわけだ。
○「過而能改、善莫大焉。」:「過ちて能く改むる、善、焉(これ)より大なるは莫し。」(『左伝』宣公二年」
 疑問詞の用法については、別に整理してみてみたい。


第6回 11.8
A 講義
B 訓読練習
C 詩人の登場(VHS)

§3文法(その3)
3.4 否定文・否定詞
3.4.1 「不」と「弗」
 この二つの否定詞は、名詞を否定することができない。
○「君子不器。」:「君子は器ならず。」(『論語』為政篇)
 この「不」は、「器にあらず」と読めない。
○「仁者不憂、知者不惑、勇者不懼。」:「仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼れず。」
                         (『論語』憲問篇)
 「不」は、この例のように動詞を否定する。「不王」:「王たらず」、「不君」:「君たらず」 「弗」は「不」にほぼ準ずる。

3.4.2 「毋」と「勿」
 二語の語義は等しく、ふつうは命令文として用い、禁止・制止を表す。
○「己所不欲、勿施於人。」:「己の欲せざる所、人に施す勿(な)かれ。」(『論語』衛霊公篇)
○「大毋侵小。」:「大は小を侵す毋(な)かれ。」(『左伝』襄公十九年)

3.4.3 「未」
 未実現・未完了を表す。
○「未聞好学者也。」:「未だ学を好む者を聞かざるなり。」(『論語』雍也篇)

3.4.4 「非」
 体言もしくは述語全体を否定。必ず、「〜に非(あら)ず」と読む。
○「非曰能之、願学焉。」:「之を能くすと曰ふに(は)非ず。願わくは学ばん。」(『論語』先進篇)
 この「非」は「匪」と書かれることがある。
○「我心匪石、不可転也。」:「我が心は石に匪ず、転ず可からず。」(『詩経』<はい=北+おおざと>風、柏舟)

3.4.5 「無」
名詞・名詞句を否定。「不」が、動詞と形容詞を否定するのに対し、「無」は、それ自体が動詞であり、名詞(句)を否定する。
○「貧而無諂、富而無驕。」:「貧にして諂うこと無く、富みて驕ること無し。」(『論語』学而篇)

3.4.6 「莫」
○「過而能改、善莫大焉。」:「過ちて能く改むる、善、焉(これ)より大なるは莫(な)し。」(『左伝』宣公二年」
 「どんな〜も…ない」という場合に多く用いられる。その他、「毋・勿」と同じように、禁止を表すこともある。 

 以上、否定詞をあげたが、「不」、「非」、「無」の意味用法の、はっきりとした違いは押さえたい。その他は、互用されることもあり、あまり細かく考える必要はない。

3.5 疑問文・疑問詞
○「百姓不足、君孰与足。」:「百姓足らずんば、君、孰(たれ)と与にか足らん。」(『論語』顔淵篇)
 疑問詞は、動詞・助動詞の前に置かれるのが原則。この例にもれるのは、「如何」「何如」「奈如」だけである。
○「以五十歩笑百歩、則何如。」:「五十歩を以て百歩を笑はば、則ち何如(いかん)。」
 また、「如〜何」「若〜何」「奈〜何」は「〜をいかん(せん)」と読む。
○「騅不逝兮何奈何、虞兮虞兮、奈若何。」:「騅の逝かざるは奈何す何き、虞や虞や、若(なんじ)を奈何(いかん)せん。」(『史記』項羽本紀)
 疑問詞のほかに、疑問語気詞(邪・哉・乎…)が文末に置かれて、疑問や反語表現となる。それらについては、前項の否定詞と併せて、テキストの該当箇所をご参照いただきたい。

3.6 品詞の転用
 漢語は、現代、古代を問わず語序が文の意味を決定する。“語序の言語”といえる好個の例は、品詞が文の中に置かれる位置で転用されることであろう。名詞が動詞として、動詞が副詞としてなど、二,三具体的にみてみよう。
○「晋軍函陵、秦軍氾南」:「晋、函陵に軍し、秦、氾南に軍す。」(『左伝』僖公三十年)
○「問其病、曰、『不食三日矣』食之。」:「其の病を問う。曰く『食はざること三日なり」と。之に食はしむ。(『左伝』宣公二年)
 前は、名詞が動詞に、後の例は、他動詞が使役動詞に転用されている。分かりづらければ、「天下王」=「天下の王」。「王天下」=「天下に王たり。」と比較して理解すればよいだろう。

 その他、注意すべき文法はまだ他にあるが、今後は、授業で取り上げる例文、作品等を読む際に、必要に応じてコメントを加えたい。
 次回からは、古典文学作品を通じて、韻文と韻律の特徴を考えてみよう。


第7回11.15
A 三国時代の詩人と人生
B 講義
§4韻文と韻律
4.1詩体
 韻文とは、一定の韻律と形式を伴った文章である。漢詩文においては韻字を句末に配して声調を整え、西欧の詩では脚韻や律動が活用された。わが国の韻文は短歌、俳句に代表されるが、ほかに長歌、今様(いまよう)、旋頭歌(せどうか)、和讚(わさん)、片歌(かたうた)などがあった。一般に韻文すなわち詩と考えられているが、かりに韻文で書かれていても、そこに詩精神がなければそれは詩とはいえない。たとえば、1869年(明治2)に刊行された福沢諭吉の『世界国尽(くにづくし)』は、七五調で書かれた世界地理の案内書ではあったが、詩とは無縁なものである。また、韻文は散文と対比されるが、ポール・バレリーは両者の違いを、韻文を舞踏とすれば、散文は歩行にあたると説明している。
 また、韻律とは、詩における音声、調(しらべ)を形成する韻と律であり、あわせて韻律とよんでいる。
 韻とは同音または類似音を配列することで、頭韻、脚韻などの種類がある。また、律とは一句の語数に一定の規約を設けることによって成り立ち、漢詩における五言律、七言律がこれにあたる。要するに詩の音楽性は、韻と律との二要素を母体とするものだが、律は詩歌の形式、骨組みであり、韻はその内部的な旋律ということができる。
 テオフィル・ゴーチエは、「作品は苦難を重ねた形式から/一段と美しく/現れでてくる」と歌い、サント・ブーブは、「脚韻よ、歌にひびきを/あたえるもの」と韻をたたえている。
 日本の和歌を例にとっていえば、律は五七調、七五調を基本とする音数律であり、前者は荘重雄大な『万葉集』に多く認められ、後者は『古今集』以後の軽快優美な歌に適したとされている。和歌においては、西欧や中国の詩におけるように、厳密な押韻規則はないが、「久方(ひさかた)の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」には、「Hisakata no/Hikari nodo keki/Haruno hi ni/Sizu kokoro naku/Hanano tiruran」とハ行の頭韻が踏まれているし、「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂(あふさか)の関」の一首では、「行くも帰るも」(Yukumo kaerumo)、「知るも知らぬも」(Sirumo siranumo)といったぐあいに、モ音の脚韻が二つの句節に踏まれている。
 さて、中国文学の元祖といえるものは、何か。その前に、殷の甲骨文字における断片的な占いの文句、鼎や鏡、鐘に刻みこまれた金文による記録がある。しかしその背景には、膨大な、生きた音の響きをもつことばの存在があったはずである。書かれた=刻まれた文字は、ことばのうわずみにすぎないのだ。
 文学とは、書籍(=昔は石、木、竹…今や、PCディスプレイ)を黙読することと現代人はふつうに思っている。その想像を遙かに超えた世界が、古代の詩歌や語り物、伝承の世界なのである。文学とは、本来生き生きとした語りや歌の響きから発したものともいえる。
 世界でも最古といえる完備した詩集は、『詩経』である。『史記』によれば、もと三千余篇あったのを、孔子が十分の一に削って、現存する三百余篇の『詩経』のかたちに整えたとされている。したがって、本来は三千余篇あったことになるが、『詩経』成立の背景には、いわば「原詩経」というべき大量の歌謡群が存在したのであろう。その作品群には、西周初期、前11世紀から東周中期、前6世紀までの約500年間の作品が含まれていると推測されている。(資料1)
 現存の『詩経』は、黄河流域の諸国や王宮で歌われた詩歌305首を収める。『書経』『易経』『春秋』『礼記(らいき)』とともに儒教の経典(いわゆる五経)の一つとされたのは、孔子が、『詩経』を生きた文学の教科書とみなしたからである。「詩を学ばずんば、以て言う無し。」(『論語』季氏篇)「小子、何ぞ夫(か)の詩を学ぶこと莫(な)きや。詩は以て興す可く、以て観る可く…」(『論語』陽貨篇)
 一方、『詩経』成立から3世紀ほどのち、戦国時代末期、長江流域には、『詩経』とはまったく様相のちがう韻文文学が登場した。 
 楚の王族屈原(前3世紀ころ)は同僚の讒言(ざんげん)によって退けられ、憂愁怨思(えんし)して「離騒」の賦をつくり、懐王の反省を求めたが用いられず、国の滅びるのをみるに忍びず、ついに汨羅(べきら)(洞庭湖(どうていこ)に注ぐ湘水(しようすい)の淵(ふち))に投死したと伝えられる。屈原はいわば、憂国のヒーローであった。その意味では、民衆の怨嗟や願望を結晶させた、伝承的存在ともいいうる。屈原およびその継承者の作品群を『楚辞』とよんでいる。(資料2)
 北方の黄河と南方の長江のそれぞれの地域で、異なるスタイルの韻文文学が発生したことは、中国の文化の多様性を見る上でも興味深い。またそれぞれが、後世、「経」つまり、人倫として通すべき筋(経の原義は縦糸)と呼称されるものとなった。
 このような、多様にして強固な文学的因襲(規範となる伝統)のもとに、中国の古典韻文は形成されていったのである。(資料3)


第8回11/22
 今日は、教科書の読み合わせがとどこおっているので、そちらに時間をまわしたいと考えている。
 前回は、曹植の「野田黄雀行」を例に、詩を読むとはどういうことなのか。みんなで少しのあいだ考えてみた。詩が新たな世界像をつくることがある、そのようにも話した。では、詩は世界を創るのか。いやそうではなく、詩人が見るのは妄想や夢のたぐいなのか。答えはむつかしい。
 ただ、いえるのは、詩人が世界を変えうるということだと思う。たとえば、現代人からするとナイーブにしか感ぜられない古代詩歌、『詩経』や『楚辞』の恋愛詩を読むと、詩が、独りの人間の漠然とした感情にかたちを与えて、それを万人が共有しうる感情としたものであることがわかる。(資料1、2参照)
 曹植の詩は、アレゴリー(隠喩のつらなりによる物語)そのものである。少年とは誰か、鷹に追われ、網に掠められようとした雀は何を意味するのか。そのような詮索を越えて、この詩は、一個の独立した世界を結晶させている。ある作者にまつわる史実や現実から離れたところに、作品世界が立ち現れているのだ。だからといって、この作品世界が、現実からは全く切り離された、自立した存在であるとはいえまい。
 作品はある種の典型である。図式化すれば、
典型=個別(作品を生み出す背景や、場面)×普遍(共有しうる認識)
とも説明できようか。先の例でいえば、曹植という詩人の個別的状況が万人に共感をよびうる普遍に高められつつもたらされたのが、彼の残した詩歌作品という典型なのである。 しかも、曹植は、友情という、道徳や教訓(=外在的規範≠内在的規範≒おのおのが感じ取り経験しえた生きることの意味)におちやすいテーマを、緊張をはらみ、生動性にみちた、新たなすがたとして再び我々の前に投げかけているといえる。そこには、友情にかかわるあらたな発見があったのだ。
詩が世界をつくるとは、一面的であるが、そのようなこととも連なるであろう。
 様々な価値が揺らぎつつある現代においても、詩人は、現実の世界に呻吟しつつ、新たな世界像を結んでいくだろう。


一点補足。曹操、曹植らは漢末・三国時代の大詩人たちは、楽府という民歌のスタイルに多くを学んでいる。
 楽府とは、中国古典詩の詩体名であった。もとは楽曲にあわせて歌われた歌詞で、楽曲により多様な形式があり、一句の字数、一首の句数は一定しない。
 漢の武帝がつくった宮中の音楽署である楽府(がくふ)で盛んに演奏され、制作された歌の意味で、楽府(がふ)の名が生まれた。楽府(がくふ)では各地の民謡を集めると同時に、文人による創作も行われ、宮廷の祭礼・宴会等に演奏した。のちにそれぞれの楽曲を楽府題(がふだい)といい、それに付された歌詞を楽府(がふ)とよぶようになった。
 古代の詩歌はほぼみな歌われていたと思われるので、楽府の歴史は遠く漢以前にさかのぼる。とくに宮廷・貴族の祭礼や宴会には楽章を歌い、戦争には軍歌を歌い、民間には日々の喜怒哀楽を歌う数多くの民謡があった。古くは、民情を探るために民謡を集める采(さい)(採)詩官が置かれたとも伝えられている。つまり、楽府には儀礼歌、軍歌、民謡などがあったのである。漢代に楽府から定型詩の五言詩(ごごんし)が生まれ、音楽から離れた読むための詩が定着すると、楽府と狭義の詩との区別が生じたが、漢・魏(ぎ)以降、文人たちが楽府に興味を示し、魏晋南北朝期を通じて大量の作品がつくられ、民間でも新しい歌曲が次々に生まれて盛んに流行した。それらの民歌の生気と新鮮な表現は文人たちに大きな影響を与えたのである。
 卓越した詩人が、民衆の詩歌から多くの栄養をえていたことは、中国の詩を見る上で、見落とすことができないポイントなのである。


第9回11/29
A 唐詩の情景
B 講義
C 訓読練習

4.2 詩の韻律
 受講生のみなさん。文学との最初の出会いは、なんでしたか。君を、文学や詩の世界に導いてくれたのはどなたでしたか …… 。
 今のように核家族化が進んだ日本では、答えに窮する質問かもしれないけれども、母や叔父、叔母、年上の従兄弟・従姉妹そして、祖母(一般的に、父や祖父をここに含めるのには少し保留が必要なようだ)が、いろいろな物語を話してくれたり、民謡を唄ってくれたりした幼年期の経験が、文学との出会いのはじめではなかったか。
 「声の力」による文化の継承、文学の享受の、確かなすがたがそこにあろう。昨今の幼児期の読み聞かせ運動(すなわち親子で本に親しむ習慣)の広まりは、その本来のすがたを取り戻したいという渇望のあらわれかもしれない。(子供の知能の開発とともに、親子の絆を深めることにも大きな効果がある。)「語る人」と「聴く人」との心の通いのなかから、生き生きとしたイメージを結び、意味の世界を形作っていく。「読む」よりも「聴く」ほうが、こうした働きに、強く作用するだろう。
 ゲーテは次のように言う。「書くということは、おそらく言葉の乱用だ。文字を黙読することも、生きた対話の、みじめな代用物でしかないだろう。人間は、『個体』によって、あらゆる可能なものを直接人間につたえるのだから」(「ゲーテ格言集<箴言と省察>」大山定一訳)
 中国の文学も、同じように「声の力」から生み出され、発展してきたのだ。たとえば、『論語』といえば、お堅い教訓書と誤解されがちだが、事実は、師弟の丁々発止としたやりとりが、活写されているのだ。書き言葉に凝縮しながら、なお対話のリズムを再現することにより、その雰囲気を現代に鮮明に伝えている。
 「子曰く、由や、女(なんじ)に之を知るを誨(おし)へんか。之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れ知るなり。」(為政篇)
 知識というもののあり方について師匠が弟子に発した、厳しくたたみかけるような指導の有様。それを、訓読のリズムによっても感じることができよう。これを、そのまま中国語音で読むと、
 <……zhi zhi wei zhi zhi, bu zhi wei bu zhi , shi zhi ye.>
となり、その繰り返しとたたみかけの簡直なリズムが、よりいっそう了解される。文学が、口承によってもたらされたということだけでなく、書き記された散文にも、音声やリズムの響きが備わっているのである。
 前置きが長くなったが、歌謡を発生源とする詩歌には、なおそのことがはっきりしているであろう。今日は、詩の韻律について、その要点をのべてみたい。

4.2.1 押韻 
 中国語の一音節は、漢字一字に相当するが、その音節構造(S)は、
 S=I(声母)+M(介音)+V(主母音)+E(韻尾)
と表せ、そのうちMVEの部分を韻母と呼ぶ。声母とは子音のことで、母音は韻母にあたる。子音+母音という音節構造は日本語と同じである。しかし、中国語は、子音、母音とも日本語より格段に多い。これに声調という要素が加わるから、中国語の音節は、
 IMVE/T と記号化できる。
 同じ母音をもつ字を、一定の間隔で繰り返し並べることを、「押韻」というが、中国語では母音つまり韻母と、「韻」とは同じではない。つまりMVEの部分が「韻」なのではなくて、介音Mを除いた、VEの部分を「韻」という。たとえば、檀<tan>、干<gan>、漣<lian>は、互いに押韻することができる。教科書230p「飲酒」の押韻を確認せよ。

4.2.2 双声と畳韻
 双声とは、二つの字の声母が同じもの、畳韻とは二つの字の韻が同じものをいう。さらに、同じ字の重なりを畳字あるいは重言という。滑稽は双声、簡単は畳韻、淡々は畳字である。これは、日本漢字音によってもかなり類推できる。資料4の『詩経』関雎には、一つの畳字と8個の双声・畳韻が用いられている。
 では、なぜこのような音声の響きあいが、起きるのか。中国語は、2つの音節の連なりが、リズムの最小単位となりやすいからである。歓よりは歓喜、簡よりは簡単と言う方が、リズムが安定する。そこで2文字の連語を言うときに、同音呼応して、声母が同じ双声となったり、韻を同じくする畳韻となる現象が、まま見られるのである。

4.2.3 平仄
 以上(押韻と双声・畳韻・畳字)のような音節と音節(文字と文字)のあいだの同音呼応の他に、中国の文学的文章には、平仄という、音の連なりによる高低の変化を音楽的に整えるしくみがある。
 平とは、平声のことで、高く澄んだ音。仄は、傾くという意味で、仄声のこと、屈曲した響きをもつ。たとえば、城・春は平声。草・木・は、仄声。深は平声である。「城春草木深」は、「平平仄仄平」という音の高低変化をもつ。
 中国語には、古来、四声という漢字音の高低のトーンがある。平声・上声・去声・入声がそれである。平仄の平は、平声であり、仄声は上声・去声・入声に相当する。
 入声は、語尾がp,t,kで終わるつまった感じの音だが、現代語にはない。現代漢語の四声は、入声がない代わりに、平声が陰平声と陽平声に分かれる。入声は、日本漢字の歴史的仮名遣いで、ふ・く・つ・ち・きを末尾にもつ漢字だから、見分けは容易である。教科書241p「江雪」参照。
 音の高低の連なりの規則は、唐詩から顕著になる。だが、最初からこのような規則があったのではない。詩を詠む長い伝統の中から、より音楽的にすぐれた詩を模索する過程で、自ずとできあがっていった、詩作の規約なのである。
 平仄のきまりには、次の二つしかない。
@平・仄を2回ずつくりかえすかたち。
 「平平仄仄平」と「仄仄平平仄」(五言詩)
 「平平仄仄平平仄」と「仄仄平平仄仄平」(七言詩)
A平・仄それぞれの三度連続を含むかたち。
 「平平平仄仄」と「仄仄仄平平」(五言詩)
 「平平仄仄仄平平」と「仄仄平平平仄仄」(七言詩)
 五言詩であれば、2文字目と4文字目の平仄が異なること(二四不同)。七言詩であれば、二四不同のほか、2文字目と6文字目の平仄が同じ(二六の対)であることが、平仄の大原則である。
このような、押韻の他に、平仄などのきまりをもつ唐以後の詩を近体詩とよぶ。教科書210p以下参照。


第10回12/6
A:詩の情景(ビデオの続き)
B:詩の朗読体験と講義
C:訓読練習

4.2.4 詩の朗唱
 中国古典詩で技法上、もっとも洗練されたスタイルの近体詩は、音声の調和に様々な工夫を凝らしている。前回は、漢字音の高低アクセントを巧みに配列した、平仄の規則にふれて終わった。難しく思わず、要は、詩歌も広い意味で音楽である、と考えてほしい。歌が文学なら、カラオケだって文学だ。
 今日は、映像でも取り上げた杜甫の「春望」を例に、詩の音楽性を感じ取ってみよう。
中国語ができなくても結構。実際に、みんなで朗唱してみる。ピンイン(発音記号)が読めない人は、カタカナを参照。(資料5、テキスト234p)

4.3 詩と歌謡
 唐代の自然派詩人、王維に「元二の安西に使いするを送る」という詩がある。(テキスト237p)「西のかた陽関を出(い)づれば故人無からん」で終わるこの詩は、「陽関三畳」の曲として、送別の席で歌われてもいた。王維は、七言絶句の近体詩様式で、これを作詩したが、後に歌謡曲となってしまったのだ。
 詩が歌曲をともなって伝わるという、このような例は数え切れまい。朗詠という漢詩の味わい方も含めて考えると、詩は、もともと音楽との結合を求めるものなのだろう。
 また、はじめに歌謡曲だったものが、目で読む詩として定着していくという、逆のケースもある。中国詩の発展経路は、おおむねこちらがメインになる。次に掲げるのは、北斉の斛律金(こくりつきん、488〜567)が、うたった「勅勒(ちょくろく)の歌」。さまざまな古詩の選集に掲載される、有名な作品である。
 
 勅勒川 陰山下       勅勒の川  陰山の下(もと)
 天似穹廬 籠蓋四野    天は穹廬(きゅうろ)に似て  四野を籠蓋す
 天蒼蒼 野茫茫       天は蒼蒼  野は茫茫
 風吹草低見牛羊      風吹き草低(た)れて牛羊見(あら)わる
 
 斛律金は、北斉の神武帝(高歓)麾下の軍人で、勅勒部(原名チュルク、すなわち突厥)の人。トルコ系民族である。彼は、中国語は話せたかも知れないが、文字の知識はなかった。部伍中で命ぜられるままに、この詩を「鮮卑語」で歌ったと記録される(実際はチュルク語でトルコ系の言語)。「勅勒の歌」の原歌は、漢語ではなかったのである。その後、北斉の宮廷で漢訳されたのだろう。小川環樹博士は、かつて、「勅勒の歌」とトルコ民歌との類似性を指摘した。さらに七言絶句の成立に際し、トルコ民族の文学が影響を及ぼした可能性があるとものべている。(「東方学」18) (資料6参照)
 このことに限らず、中国では漢代以来、西方異民族の音楽・歌曲が、新しい詩歌様式の誕生に、影響を与えてきた歴史がある。
 意外かもしれないが、中国文学は、外来文化とのダイナミックな融合なくしては、成り立ちえなかったのである。


第11回12/13
中国映画「心の香り」の鑑賞

§4 散文と修辞
 今日と来週の2回にわたって、短時間だが、中国の散文文学について少しふれてみたい。
 形式的特徴を定めやすい韻文とはちがって、散文を等し並みにみることはむつかしい。というのも、中国の散文には、あの分厚い蓄積をもつ歴史叙述から、儒教の経書(経典)、老荘などの思想書、小説、戯曲から随想等々、様々なジャンルがあるからで、それらをひとくくりにして論じるのは、そうそう簡単なことではないのだ。
 以前、ガイダンスでもふれたように、中国の文章は、歴史や思想、文学といった既成のジャンルを越えて、いつも何らかの文彩を施されてきたことにより、時間の風化作用に耐えて来たと言える。思想だって歴史だって、ことばそのものに魅力がなかったら、よそに伝わらなかったというわけだ。そうそう、孔子も、古書を引いてこう説いていたっけ。
「『言は以て志(意図)を足らし、文(修辞)は以て言を足らす』と。言はざれば誰かその志を知らん。言の文無きは、行わるるといえども遠からず。」 (『左伝』襄公25年)
 ことばに「文」(かざり・修辞)がなければ、相手に深く通じない。だから、好きな人にどう思いを伝えるかで、みんな悩むのだ。この場合、「文」というのは、ただの美辞麗句を意味しない。あいてにどう深くコミットしうるか、その時に、「文」が問われることになる。
 中国の文章も、あいてにどう深い思いを伝達できるか、読者にどうインパクトを与えられるかということに、思いをめぐらしてきたのだ。そこで、文章の修辞という共通項から、授業では、様々な中国の散文ジャンルの一面をかいま見てみたいと思う。
 その前に、限られた授業時間で、学生諸氏が関心を持ちやすい、水滸伝や三国演義等の小説や諸子百家、京劇等に引き継がれる戯曲を紹介するのは、至難の業だし、基礎の授業趣旨にそぐわない。
 そこで、今日は、語り物と関連する小説や物語、お芝居などの伝統の上に新たに登場した現代の映像芸術、中国映画を観ることによって、そこにどのような、中国人の思考様式が働き、文学的伝統が消化されているかを、先に考えておくことにする。
 取り上げるのは、『心の香り』。みなさんは、以下のような観点にも注意を払いつつ、この映画から感じ取れるものを、素直に述べあらわしてほしい。
○老人と少年の組み合わせ等々、どのような「対」(二元的思考・陰と陽)がみられるか。
○古典の継承がどのようになされているか。それには、いかなる矛盾あるいは現代に通じる展望が指摘できるか。
○上と関連して、古典散文の学習はどのように、また何のために行われているか。
○京劇とは、中国人にとってどのようなものか。
○……
 以上とは別に関連しなくてもよいから、自由に感想を聞かせてください。それをもとに、来週12/20の、本年最後の授業を展開したいと考えています。
 では、今日はごゆるりと。



第12回 12/20

A:「心の香り」の余韻から
B:中国人の「こころ」
C:訓読も少々

4.0 授業では、「散文と修辞」について、お話しするところまで来ました。勉強しようにも、そわそわとこころ落ち着かないこのごろ。いつも、ほんとうにごくろうさま。 
 
 詩歌を除いた文章ジャンルは、大別以下のように分けられる。
@韻文に近い賦(ながうた)
A駢儷文(美文)
B古文(先秦から漢代の文章、およびそれへの復興をめざす唐代以後の文章。美文にたいする名文や達意の文)
 @Aは、韻文(音声等の規則性・拘束性がつよい言語表現)といえなくもない。平家物語や、古事記序を思い起こしてみよ。美文調でない、いわゆるふつうの漢文は、おおむね「古文」といえよう。教科書217p以後に掲載されるのは、古文といえる。
 しかし、上記のおのおのについて、作品を例示しても、学生諸氏の多くには、あまりぴんとこないのではないか。
 授業では、ジャンルがどうの、様式がどうのではなく、次のような古典文の修辞の特質を照らしだしたいのだ。
4.1.稽古:いにしえに照らして自己の論点を主張するために古人の言行を引用する。
4.2 引経:古代の聖賢のことばを引用する。
4.3 換喩:ある事物の部分で、全体をあらわす。帯甲は、兵士、黄髪は老人をさすように。
4.4 隠喩:のようにと説明されない比喩。鳳凰や亀龍が、高貴な人をさすように。
4.5 迂回:わざわざ、回りくどい表現をする。典故(そのことばの出典)を用いる。
4.6誇張:言語の躍動性をます修辞。白髪三千丈、憂いによってかくも長し、のたぐい。
 
 これらのことについて、例文をあげて説明する予定であるが、その前に検討すべきこ とがある。 
 まず、みなで考えたいのは、先週観た映画である。上の4.1、4.2は、中国人の平素の言動に、根付いてはいなかったか。特にあの、ランニング姿の似合う、京京(ジンジン)は、子供なのにやたら古典の一節を引いていたではないか。あと、あの大きな家。お芝居の舞台にもみえるほどだ。中央のテーブルをはさんで、孫と祖父が左右に座る場面もあった。そもそも、映画のはしばしにみえる、あのおだやかな風景にはどのような、安定感を与える力学がはたらいているのだろう。
 今日の講義では、映画のディテールからうかがえる、中国人の「こころのかおり」について、ふれてみたいと思っている。そのような中国の心性を、少しでも理解できてこそ、古典の文章を内側からささえる、サムシングを実感できるのではないかと思うのである。
 陰陽観、伝統の継承、思考様式、それら、言語表現をもたらす、共有の精神の源泉を、映像を通じて、感じ取り、分析してみる。それが、今日の授業のねらいである。



第13回 1/17

A:詩心(しごころ)の風景
B:講義
C:訓読で口慣らし
 もうまもなく大寒という折柄、多少、新鮮味にかけますが、まずは本年の初顔合わせ。心より新春のお慶びを申し上げます。中国では、新年快楽!新春愉快!……などとも。
 さて、漢語は、日本に輸入されると固いニュアンスを帯びるのがふつうですが、「快楽」「愉快」の場合は逆で、日本語のもつ浅く軽薄なイメージは、本来ありません。中国語の「快楽」「愉快」は、もっと深い喜び、心底楽しい、共にめでたい、といったことをあらわす言葉です。今年も、深い楽しみ、喜びを、ともどもに分かち合いたい!というのが中国人の年賀に込めた心持ちではないでしょうか。
 ともあれ、授業に参加してくれたみなさん。身体健康な、心も新たの2002年をスタートしていますか。

5 古代文化の基礎知識
5.1 天文
 古代人は、自然を神秘なるものととらえ、畏敬の念をもってそれに接した。全宇宙には、究極の精神的実在が存在すると考え、中国ではそれを、天、あるいは帝(上帝)と称していた。近代人が、それを迷信、俗信と一蹴するところに、むしろ近代人の傲慢が潜んでいるともいえよう。では、近代・現代の我々が、自然や宇宙についてどれほど知り得たというのだろうか。ましてそれらを自在に操ろうとして、自分の首を絞めてきた結果が、現今の環境問題であり、自然保護等の運動であろう。人間を含まない自然がありえても、自然から切り離された人間存在はありえない。自然保護運動は、自然環境の存続のためではないのだ。人間が生存しゆくためには、自然を本来の姿に戻さざるをえないのである。
 古代人は、永遠を思索し、信じた。それは、天=宇宙に向き合っていたからだ。中国の古典文学に、星宿や日月に関するあまたの描写が見えるのも、その理由による。また、史書には、たとえば『史記』天官書、『漢書』天文志があり、遙か遠い漢代においても、中国の天文知識は、すでにかなり豊富であったということができる。
5.1.1  暦法
 古代人が、常に観測していた天象は、太陽の出没や月の満ち欠けであった。昼と夜が入れ替わる周期を1日といい、月のかたちが変化する周期を1ヶ月といった。年の概念は、当初、農作物が気候の周期的な変化に応じて生育していくことから形成されたものと思われる。中国では、年は稔に通じるのである。
 穀物の生育の周期は、寒暑の交替する周期とも重なるので、一年は太陽の一周する時間であるともいえる。中国古代の暦法は、すべて陰暦なのでなく、陰陽合暦(太陰太陽暦)であった。
 ただし、太陽年は約365と1/4日で、月の満ち欠けの周期はほぼ、29.53日である。一月の12倍は、太陽年より少ないので、3年に1ヶ月の閏月をもうけてその間の誤差を調整したが、それでも調整がつかず、折々に閏月をおいた。漢の初めは、秦の暦制を踏襲し、一年は10月から始まり9月で終わったが、閏月は9月の後に一月おかれた(「後九月」)。



第14回 (1/24)

A:詩心の風景…
B:講義!
C:漢詩作ってみる?

5.1.1 暦法と星宿の続き
 古代人にとっての、天文暦法とは何か。要するに、時間(推移・循環)、空間(方位・存在・虚無)を4次元的にトータルに把握しようとする手だてであったといえよう。では、時空の4次元を越えた5次元は存在するのだろうか……? みなさんはどう思いますか。

 それはさておき、古人は、長い間生産活動にたずさわっていくうちに、季節の移り変わりや気候の変化の法則を少しずつ認識するに至った。一年365と1/4日を均分して、立春・雨水・啓蟄・春分等の節気で24等分し、四季・気温・降雨・気候など各方面の変化を表した。中国古代の人民は農事との関わりで季節を把握したのである。この二十四節気は、現代の日本でも用いられ、人々が季節感の移ろいを認識する目安となっている。(資料参照)
 二十四節気は、黄道上を変化する太陽の視位置に基づいて定められたものである。古代人は、黄道付近の一周天を、「十二次」(星紀、玄キョウ=木+号、……)に均分したので、太陽が運行してある次に至ると、ある節気になるのである。『漢書』律暦志に載せる二千年あまり前の天象を例に取れば、太陽が運行して「星紀」の最初の地点に至ると「大雪」となり、「星紀」の中央に至ると「冬至」であり、「玄キョウ」の最初の地点では「小寒」、「玄キョウ」の中央では「大寒」になる。(資料参照)
 さて、黄道・赤道付近の28個の星宿を、中国人は、天象観測の基準座標とした。先述した、「十二次」の次第に応じて、二十八宿があり、それが目印となる。(資料参照)
 中国で二十八宿の各宿の名称のすべて見られる考古学的に最古の証拠は,前433年の湖北省随県の曾侯乙の墓から出土した漆器の蓋に描かれたもので,中央に北斗七星を表す斗の字を文様化したもの,左右には東と西に対応する竜と虎の図象を描き,そのあいだに二十八宿名が周還するように書かれている。文献に二十八宿名がすべて記されている最古のものは,前4世紀の《呂氏春秋》円通篇である。漢代初めの前2世紀の馬王堆3号漢墓出土の五星運行表や,同じ世紀にできた《淮南子(えなんじ)》《史記》などにも二十八宿名が完全な形で見える。
 二十八宿は7宿ずつ東西南北の4方角に分類され,また色および動物に対応させられた。曾侯乙墓出土の考古学的証拠によってもわかるように,すでに前5世紀に東方青(または蒼)竜,西方白虎の対応がみられたが,漢代の画像石などには東方青竜,北方玄武,西方白虎,南方朱雀の四神図を描いた多数の例がみられる。これは二十八宿と結びつけることによって宇宙誌的な意味を表現したものである。二十八宿図をあしらった文様は唐代の銅鏡の図柄にもみられ,同じころの西域のアスターナ古墓にも二十八宿を描いた壁画があった。日本の高松塚古墳の四神図,二十八宿図も同じく宇宙誌的な意味をもったもので,中国文化圏に広く伝播した証拠である。
 現在調査中のキトラ古墳も、その内部写真から、中国の天文・律暦・陰陽五行の知識がそのまま反映していることが判明している。 

5.1.2  干支
 十干十二支は、略して干支(かんし)といい、日本では「えと」という。干支の知識は中国に発生したものが、朝鮮を通じて日本に移入された。現在日本でも干支紀年法は多少は残っている。
 たとえば年賀状に西暦の代わりに干支で年号を書く人もいるし,還暦(自分の生れ年の干支にもどること,数えの61歳)という言葉はまだ生きている。甲子園は甲子の年(1924)にできたのでその名がある。丙午(ひのえうま)生れの女性は(陰陽五行説によれば丙も午も火になるので)気性が激しく,夫の運勢を圧倒しその生命もちぢめるという。特定の月の亥・寅・午の日に建築関係の仕事を忌む、三隣亡(さんりんぼう)というのは聞いたことがあるだろうか。また、辛酉(しんゆう)革命,甲子革命はどうだろう。これは難しいかもしれないが、中国の緯書(予言書)にみえる説で、中国よりも日本で信じられ,この年になると改元が行われた。
 中国では干支の知識は古代からあったが、それを年暦に用いたのはずっと遅く、前漢時代(前202〜後8)といわれている。日本に大陸より暦法が伝えられたのは、『日本書紀』によれば、553年(欽明天皇14)に内臣を百済(くだら)に遣わして暦書を求めさせたのが最初という。しかし実際に暦法が政治のうえに採用されたのは推古(すいこ)朝になってからである。602年(推古10)に百済の僧観勒(かんろく)が来朝して暦本を伝え、それによって書生が暦法を学んだのである。
 干支の干は幹であり、支は枝であるという。十干は甲(こう)、乙(おつ)、丙(へい)、丁(てい)、戊(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)をいい、十二支は子(し)(ね)、丑(ちゆう)(うし)、寅(いん)(とら)、卯(ぼう)(う)、辰(しん)(たつ)、巳(し)(み)、午(ご)(うま)、未(び)(ひつじ)、申(しん)(さる)、酉(ゆう)(とり)、戌(じゆつ)(いぬ)、亥(がい)(い)をいう。この十干と十二支を組み合わせて暦日(れきじつ)を数えるのであるが、かりに甲子(きのえね)の年から始めると10と12の最小公倍数が60なので、61年目にふたたび甲子となる。それで数え年61歳となると還暦(かんれき)の祝いをする風習が始まった。
 中国やアジアの漢字文化圏において,年だけでなく、月・日・時や方位,さらにはことがらの順序をあらわすのにも用いられた。中国では,西方の文明が1月を四分して7日(週)をサイクルとしたのに対して,三分して10日(旬(じゆん))とする日の数え方が古く殷代には行われていた。甲骨文に卜旬とあって,ある日から向こう10日間の吉凶を占った。十干はその10日の順序符号である。十二支も12月の呼び名として殷代に考案されたらしい。この両者を組みあわせて六十干支とし,それによって日を記すこともすでに殷代には行われていた。
 十二支と十二獣がいつから結びついたのか定かではないが,近年,湖北省の雲夢睡虎地の秦墓から出土した竹簡に含まれている《日書》には,現在行われているものとほぼ同様な動物名が十二支にあてられている。そして後漢の王充《論衡》物勢篇には,われわれのいう〈えと〉と同じものがすでに出そろっている。調査中のキトラ古墳には、十二獣がはっきり描かれている。
 日本では剛(陽)を〈え(兄)〉とし柔(陰)を〈と(弟)〉とし,五行を加味して十干を次のように呼ぶ。木―甲(きのえ)・乙(きのと),火―丙(ひのえ)・丁(ひのと),土―戊(つちのえ)・己(つちのと),金―庚(かのえ)・辛(かのと),水―壬(みずのえ)・癸(みずのと)。したがって〈えと〉はもともと十干の呼称であって,十干十二支の意で用いられたり,今日十二支の動物名の代名詞のごとき使われ方がなされているのは,ほんらいの意味からすれば誤用なのである。(教科書251p参照)


第15回(1/31)



A:成績評価について:いわゆる平常点で判定。提出物も朝一の努力も、すべて数字に換算されます。
B:今日の課題:「中国文学の基礎を為すものは何か。」 このテーマについて、講義内容や教科書を参考にしつつ、各人の感じたこと、考えたこと、得心したことなど自由に論じて下さい。(なお、これは試験ではありません。ただし、過去の提出物3回分に相当する成績評価を加算します。)
C:人間の(精神)生活の中で、文学はどのような位置をしめているのか。みなさん、考えながら、この教室をあとにして下さい。
                                 では、再見!