山あいのその村には、上、中、下の三つの庄屋があった。

 中庄の嫁・ヌイにはこのところ気がかりなことがあった。

 春の土用を間近にひかえたこの日々、姑のレンが雪解けのはじまった鋸伏山を朝に夕に眺め入っているのだ。

 やがてレンは、田打ちのために馬を増やせと倅に提言する。

 田仕事のことに口出しするのは絶えて稀だったのに、レンは、今年の田ごしらえでは畦に大豆を植えるなとも言う。

 ヌイは心の中で姑に問う。

 「お姑(ばば)よい、おめに物問わんか。何か思うことが有りつるか」

 心のなかの問いに、レンが答える。

 「ヌイよい、鋸伏山の上に浮かぶ雲の形をば畏れよ。破れ傘となるなれば、寒の夏を呼ぶ知らせやち」

 庄屋の采配ひとつで田の収穫は大きく左右される。不作となれば、小作人とその家族を飢えさせることになる。

 「寒の夏」の到来ともなればなおさらのことだ。冷たい夏がくれば、冬には飢えがやってくる。

 「お姑よい、おれの気がかりはそのことに有らぬ なり。鳥のよにおめがどこかへ飛んでいく気がしたるよい」

 その村には秘したる約定があった。六十の齢を迎えた者は家を出て、人里離れた原野に移り住むのだ。

 数年に一度くる凶作はどのようにしても免れず

 となれば若い者たちの糧をジジババの命と替えて養おうという、昔からの知恵であった。

 蕨野、そこはこの世とあの世の中継地なのである。

 秋の終わりまで生きのびた者だけが里へ帰ることを許される……、と、レンはヌイに告げて家を出た。

 

 

原野に捨てられた老人たちはどのようにして生きていくのだろう。

家に残った子たちはそれをどう受け止め、感じ、考えていくのだろう。

その生きざまを、そしてその死にざまを、この映画は、農村と山地の四季の移ろいのなかで描きだす。

レンとヌイの心のなかの語り合い、相聞歌として綴っていく。

ヌイが心のなかで語りかける。

「お姑よい、男というものは口数も少なく、おれにはまだ少々恐ろしき心地せる。

夫よりもなお姑(しゅうとめ)のおめのほうが、おれには慕わしかるよい」

死の恐怖と戦いながらも、レンは心のなかで若い嫁を励ます。

「ヌイよい、団右衛門はこの里の庄屋なれば、男仕事の頭領。したら嫁のおめは女仕事の頭やち。

名子、小作の女房等、下女たちを使うて、おれがしてみせたよにやるがよ い」

 

 

冷たい夏の終わり、中庄の田の稲穂は、上、下庄よりも幾分豊かに稔っていた。

春のうちにレンの提言を素直に受け入れていたからだ。

しかし秋の終わりがきても、レンは帰ってこなかった。

「ヌイよい、まことは蕨野に帰途の道は無えなりよ。

おめが子だちのごとく泣くなれば、二度と帰らぬ ことを教えるもむごきなり。

されば、秋になればもどると騙して別 れ た」

蕨野へ赴いた者は二度と里へは帰らぬ のだと知って、ヌイは愕然とする。

だが泣いてばかりもいられない。すでに村のあちこちで飢えとの格闘がはじまっていた。

しかもヌイの胎内には、新しい生命が宿ろうとしていたのだ。

一方、自らの意志で死地へ赴いたジジババたちは、命のあるかぎり何をしても生きのびようと心を決めていた。

不浄として食することを忌んできた鳥や獣の肉も食べた。

残酷で、それでいて滑稽ですらある奇妙な開放感が生まれた。

今世では叶わなかったが来世ではお前を嫁にするぞと、臆面 もなくレンに告げるジジまで現われた。

時の流れに真摯に身をゆだねるとき、人には、思いがけないしたたかさが湧出する。

そのしたたかさは、美しさと言い換えてもよい。

村と蕨野の境界を流れる川でババたち が幼女のように水浴びをするシーンは、したたかで美しい。

だがしかし、降雪とともに命の炎は尽きていく。

 

 

人はどこから来て、どこへ行くのだろう。 その答えは、命のあるうちは得られない。

とするならば、より積極的に捉えてもよいのではないだろうか。

死を思いわずらう人間にとって唯一幸いなのは、死が、恐怖であ ると同時に幻想であることだ。

降り積もる雪のなかで命の炎の尽きたレンの魂はどこへ行こうとするのだろう。

そこは、天国とか地獄という茫然とした観念の世界ではなく、きっと彼女がもっとも行きたかったところに違いない。

その答えが、この映画のラストシーンとなる。

 

 

 

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